頂き物
秋野茅緒様

秋野茅緒様のサイト『Jellybeans』で、3周年イベントの特別リクエスト権を獲得致しました!
秋野さんオリジナルクロスワードを解き、その正解者の中から見事選ばれました。嬉しい!
私のリクエストは『プラス』でした。うちのサイト名にちなんでお願い致しました。
「小説でも詩でも書きやすい方で」と頼みましたが、こんなに立派な小説を頂けて感激です。
タイトルは『JUPITER』。
いろいろな事が重なったり、1つになったりするところで、プラスの要素を取り入れてくださいました。
キラキラとした希望溢れるお話です。
秋野さん、素敵な小説をありがとうございました。

秋野茅緒(現カタクラ)様のサイトはこちら→ Jellybeans


++ JUPITER ++

これまで誕生日にいい思い出があったことなんて、一度もなかった。
5歳の時は発表会でひどいミスをして舞台上で大泣きしたし、10歳の時は大の仲良しだった女の子が遠くへ引っ越していった。15歳の時は指を3本も骨折して、1ヶ月半バイオリンの練習が出来ず州の演奏会への選考会の候補からも外された。
20歳の時は、密かに憧れていた先輩ビオラ奏者が、彼女とライバル関係にあったバイオリニストとの結婚を決めて退団するというニュースを、そのバイオリニストと仲間の会話から知った。彼にはソリストとしてバックアップしてくれるプロダクションがいたとかで、退団後もしばしば彼の名前を耳にした。
それ以外の誕生日は、特別悪くもなかったが、良いわけでもなかった。とにかく5年に一度は大厄がやってくるのは間違いないのだ。今日の25歳の誕生日にも、それはやってくるのだろう。ノアは憂鬱だった。






繁華街の表道りと裏通りを結ぶ路地の奥は、ストリートパフォーマーたちの天国だ。週末のここにはミュージシャンだけでなく様々なアーティストが集い、それぞれの世界を楽しんでいる。ノアはそんな人たちから離れた隅っこで、歌いながらギターを鳴らしていた。



  どうしてひとりきりなんて 思ってしまったんだろう
  どうして愛されていないなんて 思い込んでしまったんだろう
  もう背中に羽はないけど ひとりじゃない
  ねえ 宇宙で4番目に明るい惑星(ほし) あなたは
  こんなこと 考えたことはないでしょう
  もう背中に羽はないけど ひとりじゃないと信じている



我ながらセンチメンタルな歌だと、ノアは思う。おまけに歌詞以外はまだ未完成。でも、ノアにとっては大切な歌だ。楽団を辞め、バイオリニストからストリートミュージシャンの道を選んだノアの、最初の歌だから。
アコースティックギターかピアノの伴奏で囁くように歌うバラード。空に輝く星に語りかけるイメージに沿った繊細なメロディが出来たと、ノアは気に入っていた。
しばらく歌った後、休憩がてらアーティストたちを観察していると、どこからか微かに歌声が聞こえてきた。鼻歌のようなそれには聞き覚えがある。
歌われているのはノアの歌だ。そう、ついさっきまで彼女が歌っていたセンチメンタルな歌。
声の方向から見当をつけて振り返ると、歌声が止まった。そして。
「――やあ」
ノアの歌を口ずさんでいた彼は、特に気後れした様子もなく右手をあげ、微笑んだ。
「またあなたね」
「また僕で〜す」
軽い口調。ノアは顔をしかめる。
「そんな顔しないでよ。ファン第一号にさ」
何がファンよ。ノアは非難めいた視線を送り続ける。
「それより歌、先週のままだね。僕の提案気に入らなかった?」
――馴れ馴れしい男。さっきまでの気分がぶち壊しだわ。
ノアは心の中で毒づいた。
初めて会った先週の今日から、彼はこんな風だった。






一週間前。アーティストたちから漂ってくる熱気に刺激されながら、思いつくまま、若干興奮気味にコードを拾っていた時だった。どこからか声が聞こえてきた。自分の歌声に重なって。
顔をあげたが、近くには誰もいない。視界の中にも、後ろにも。
(気のせい・・・・・・?)
しかし気のせいではなかった。再び歌い始めたノアの声に、また同じように声が重なった。今度はノアが歌うのを止めても、途絶えなかった。それは、上の方から聞こえてくる。
「誰? 歌ってるの・・・・・・」
背後は飲食店の裏通り。彼女の呼びかけに答えるように、その中の一軒の古いテラスからひょこっと顔がのぞいた。それが彼だった。
「――やあ」
にこやかに降りてきた彼の年齢は、年上にしても年下にしてもそれほど離れていないと思われた。中性的な顔立ちは、ハンサムというよりかわいいと表現した方がしっくりくるのに、シャツの襟元を鎖骨が見えるまで開けるという着こなしがそれを邪魔している。
ノアが彼を観察している間に、彼の方は煙草に火をつけた。手を風よけにする慣れた手つきもまた、アンバランスさに花を添えている。
声の主を探ったことを、彼女はなんとなく後悔した。
「いい歌だね」
「・・・・・・え?」
「今の。君の歌でしょ」
「え、うん」
「愛されていないなんて――ね。まぁ悪くはないんだけど」
返答を待たず、彼は出来たばかりのサビ部分を、ノアが歌うよりもなめらかに何度か繰り返し歌った。軽い口調とは別人のように目が真剣だった。何度目かで納得したように大きく頷いて、また口を開く。
「<愛されていないなんて>より<愛されないなんて>の方がいい」
「・・・・・・え?」
「それに、<思ってしまったんだろう><思い込んでしまったんだろう>のとこも、<思ったんだろう><思い込んだんだろう>にしなよ。その方がずっといいから」
「・・・・・・?」
何を言っているのか分からなかった。いきなり外国人に知らない言葉で話しかけられたように、ノアはぽかんとして彼を見返した。
「分かりにくい? じゃあ聞いてて」
いったん口から紫煙を追い出し、煙草をタクト代わりに振って、彼はいきなり歌い出したのだ。



  どうしてひとりきりなんて 思ったんだろう
  どうして愛されないなんて 思い込んだんだろう



と、ノアの歌詞とメロディを少し変えて。






「提案って何のことだったかしら」
不愉快だったのでノアはとぼけてみた。だが彼はこういう反応を待っていたかのように、ニヤニヤしている。
「あれれ、覚えてないなんて嘘でしょ。僕の歌声に聞き惚れてたくせに」
「聞き惚れ・・・・・・っ? 何言ってるのよ。ばかじゃないの」
ノアは慌てた。
図星だったのだ。彼の歌声は、だらしない服装や、馴れ馴れしい口調や、なんとなく人を下に見ているような態度から想像できないくらい、伸びやかで魅力的だった。やや甘いとも表現できる、女性には出せない厚みのある低めの声。それが自分のつくったメロディを奏でる――ノア当人でなければ実感できないであろう種の感動を、胸におぼえたほどに。
でも、それをこの男にストレートに伝えるのは嫌だった。
「とにかく気が散るから、どこか行ってくれないかしら」
もしかして、これが今年の厄災かも。だとしたらあまり関わらない方がいい。つっけんどに言って、彼を視界の外に追いやる。
けれど、彼もしつこかった。
「気に入らなかったならそう言えよ。その方がマシだ。覚えてないなんて嘘つくなよ」
「――気に入らなかったわ」
意外に真剣な反応が返ってきて驚くが、ノアもすぐに言い返す。
「あなたの態度がね」
「態、度・・・・・・?」
「そうよ。今もそうだけど、あなたの偉そうで図々しくて押し付けがましい態度はとても気に入らないわ。初対面とは思えなかった」
「・・・・・・そんな」
「あなたみたいな人、初めてだわ」
「そんなに・・・・・・ひどい印象だったのか、僕。・・・・・・も、もしかして嫌われてる?」
言い過ぎたかと思わせるほど語気が弱くなり、一瞬目に不安げな光が灯る。その僅かな変化は、彼の言葉を肯定するのをためらわせた。
その通りと答える方が厄介払いになるのかもしれない。最悪な誕生日への扉をロックできるかもしれない。でも――ノアはそうしなかった。誕生日の呪いよりも、彼の持つ不思議なギャップに好奇心をくすぐられた。
「――いいえ、そんなことはないわ」
口悪なくせに歌声には大きな魅力がある。悪ぶった格好をしているくせに自分のことを「僕」と呼んだり、偉そうな態度の割に嫌われることを――相手がほとんど初対面なのに――気にしたり。
「それ本当?」
もしかするとこの子は、見た目よりずっと年下で性格も幼いのかも。そう思いはじめると、いちいち突っかかっている自分がおかしくなり自然と力が抜けた。返事の代わりにノアは軽く微笑んだ。
「私も言い過ぎたわ、ごめんなさい。ねえ。名前なんていうの?」
「オリヴァー。君は?」
「ノアよ」
「ノアか。ノアとオリヴァーじゃ、まるでノアの箱舟だ」
冗談をいって彼も笑顔になった。






「ノアってクラシックやってただろ。楽器はバイオリン」
「なんで分かるの?」
「ピックの使い方がぎこちない。誰が見てもまるっきり初心者。なのに、左の指運びはかなり慣れてる感じとか」
ノアは思わず手元を見た。確かにギターを始めて間もない。ピックの持ち方も、まだどことなくしっくりきてなかった。
「それにメロディを聞いてたら分かる。きれいなラインだけど、歌っていうより楽曲っていう方が似合うっていうか。分かる?」
ちょっと考えて、首を振る。分かる気はするがピンとこない。
それに、急に真面目な話題を持ち出されて戸惑ってもいた。
「同じメロディを、歌うのと奏でるのとでは印象が全然違うってことだ。例えばクラシック音楽の旋律に歌詞をつけて歌う、歌謡曲のボーカルラインをバイオリンで弾く。どっちにもそれぞれの良さはある。音楽としてもきちんと成り立つ。でも、やっぱり違うんだ。人の声じゃないといけないメロディ、バイオリンの音色じゃないといけないメロディっていうのはあるんだよ」
音楽論か単なるこだわりか。彼の主張は、ノアには後者に聞こえた。
「よく分からないけど・・・・・・あなたの感性では、私の歌は歌向きじゃないってことかしら」
「まあね」
「・・・・・・だけど、歌う自由くらいはあるでしょ」
当然だ。彼にあれこれ口出しされるいわれなどない。
「うん。まあ、そうだけど。でも、僕が手直ししたメロディで歌えば、それは逆転するんだ」
「あのね・・・・・・いってることめちゃくちゃよ、あなた」
「そう思う?」
「思ってる」
「じゃあ歌ってみてよ。本当にそうか」
不敵に笑い、煙草に火をつける。本日の1本目だった。
からかわれているのか――だとしても、彼を突き放さなかった自分のせいだ。この男が5回目の悲劇の登場人物だとしても、台本から追い出すことはできない。ノアはもう腹を決め、肩をすくめながらギターを抱えた。
「最初からね」
はいはい、と返事をして歌い始める。オリヴァーの視線を痛いほど感じて歌いづらくはあったが、淡々と歌った。
やがてオリヴァーがこだわっているサビの部分にさしかかり、ノアは彼の指示通りのメロディに切り替えた。こんな僅かな修正で、彼の言うような変化が起こるとは思えなかった。<その瞬間>がくるまでは。
どうしてひとりきりなんて・・・・・・と歌ったところで、背中をぞわっとしたものが走り抜けた。
(・・・・・・なに、これ)
経験したことのない、ぞわぞわと肌が粟立つ感覚。強いていえばオーケストラに初めて参加した時の興奮と感動に似ている。でもそれだけではない別の要素もあった。
歌い終えた後オリヴァーは満足そうに軽く笑顔を作り、煙草の続きを吸った。ノアは彼の動作を見守りながら静かに興奮していた。
(声が・・・・・・)
人間の歌う声が、こんなに柔らかで暖かいことをノアは知らなかった。楽器同士のように共鳴して厚みを増した声が、こんなに優しく耳に響くことも。
妙な感覚の正体は彼の歌声だった。
あの甘さを含んだテノールが、つかず離れずノアの歌声を包むように同じ言葉をメロディにのせていく。声量もノアより抑えているのに、あくまで彼は<ハモリ>を入れているだけなのに、耳が惹かれてしまう。それだけ彼の声には存在感があった。
「ね・・・・・・あんたって、何者?」
オリヴァーのいったことが、分かったような気がした。<人の声じゃないといけないメロディ>があるというのは、本当のような気がしている。
「迷える音楽家を救う正義の味方」
絞り出した問いに彼は、ふざけてアニメのヒーローもどきのポーズを取っている。
「真面目に聞いてるの」
「半分は本当さ。ねえノア、僕のパートナーにならない?」
「え? パートナー?」
「うん・・・・・・実は」
もしかして彼もストリートミュージシャンなのかしら、と思ったがそうではなかった。
「僕そこのクラブで演奏してるんだけど、ボーカルがいなくなっちゃって困ってたんだ。先週テラスでサボってた時君の歌が聞こえてきて、ピンときたんだ。この歌だって。まぁ多少手直しは必要だと思ったけど。そういうわけでさ・・・・・・歌ってくれないか。僕と一緒に」
彼が働いているという古いテラスのついたクラブには、他の店同様オレンジ色の光が灯っている。そう大きくはなさそうな外観だが、店についてより最後の一節が気になって、ノアはドキドキしている。彼と一緒に歌えたら――考えただけで鳥肌が立ちそうだ。
「ああ、店は古くて狭いけど、吹き抜けになってて二階にも客が入れるようになってるんだ。あのテラスにも一応テーブル席もあるし。ノア、想像してみてよ。一階の中央にはグランドピアノがあって、僕が演奏する。君はその隣でギターを弾きながら歌うんだ。なんならピアノの上に座ってもいい。なかなかいい光景だと思わない?」
「グランドピアノがあるんなんて素敵!」
いわれるまま想像を膨らませてみる。市街の飲食店でもグランドピアノを置いているところは少ない。いっては悪いがこんな小さな店にグランドピアノが――というかピアノ自体が――あるというのは、ノアには驚きだった。オーナーかマスターが、相当音楽に興味があるのだろう。
「ねえ、でも・・・・・・あなた、ピアノを弾くの?」
「うん。大概の楽器なら何でも鳴らせるよ。でもピアノの音色が一番好きだな。それよりノア、どうかな。やってくれる?」
焦らせたわけでもないのに、オリヴァーはもう1時間も待たされているみたいに何度もライターを握り直している。煙草も灰の部分が長くなって、先端がポトリと地面に落ちた。
ウラがあるかもしれないと、さっきまでのノアなら疑っただろう。待遇は、給与は、労働時間はと、ひと通りの条件を聞いてからでないと安心しなかっただろう。
しかし今彼女の頭には、<オリヴァーと一緒に歌う>ことしかなかった。あの感動をまた味わってみたい。
「中を見たいなら招待するから」
彼は今にも地団駄を踏みそうだ。
「ええ、お願いする。でも、先に返事をしておくわね。――私でよければ歌わせて」
ノアが答えた瞬間、彼の顔がぱあっと輝いた。
「やってくれる? 本当に? ・・・・・・うっわー・・・・・・あはは、最高だ。嘘じゃないね? 後でやっぱりやめたなんていってもダメだからね?」
「そんなこといわないわよ」
「ありがとう、ノア! 嬉しいよ」
オリヴァーは叫び、ノアに抱きついた。微かに煙草の香りが漂ったかと思うと、彼の体はすぐに離れて今度はガッツポーズを取っている。子供みたいに全身で喜びを表す彼を見て、ノアの口元も自然に緩む。
出会ってわずかな間にこれだけくるくると印象の変わる人を、初めて見た。世の中にはこんな人もいるんだな。これまで楽団という限られた世界の人間しか知らなかったノアに彼は、ごく新鮮に映った。
「じゃ契約成立。店に行ってみる?」
ひとしきりはしゃぎ終えた彼について、ノアも店へ向かった。






店の中は想像以上に素晴らしかった。
入口の正面に短いバーカウンターがあり、奥の作りつけの棚にはボトルやグラスが整然と並べられている。フロアには4人がけのテーブルがいくつか、慣れた様子で鎮座している。
左手には、壁に沿って螺旋状に幅広い階段がある。そこにも2人がけのテーブル席があって、階下を見下ろせるようになっている。ちょっとしたクラブホールみたいで面白いつくりだ。
しかしノアを最も感動させたのは、中央の丸いステージに置かれた、外国のアンティークピアノだった。
「ステージにあがってみたら? 君の仕事場だ」
言われて、少々緊張気味にステージに立ってみる。バーカウンター、1階フロア、階段をぐるりと見渡せる。
「こんなとこで働くなんて、嘘みたい」
「現実さ。ノア、これ雇用契約書。一応読んでサインちょうだい」
「あ・・・・・・うん」
半ば夢心地で契約書に目を通してサインしながら、気になっていることを聞いてみた。
「今日はお休みなの? それともまだ開店してないの?」
時間は10時過ぎ。店内には彼とノアしかいない。見たところ厨房や控え室はなく純粋に酒類しか出さない店のようで、誰もいないというのはおかしい。
「いや、営業中だよ」
「えっ、だって」
改めて店中を見回してみるが、猫の子一匹いない。
「誰もいないじゃない。他の従業員とか店長さんとか・・・・・・」
「店長は僕だ。従業員は君ひとり。今んとこね」
「あ・・・・・・あなたが店長なの!? だってあなたはバンドやってるって」
「店長もバンドもやってる。ついでに教えとくと、バーテンもフロア係も掃除も全部僕の仕事だ」
衝撃的な告白に頭がくらくらして、ノアは絶句する。彼の言葉をひとつずつ思い出して噛み砕きながら、何故この人はこんなに平然としているのだろう、と呆れる。
「ボ、ボーカルの子が辞めたっていうのは」
「ああ・・・・・・暇だったんだろうなぁ」
「だろうなぁ、って」
がらんとした店内にふたりの声だけがやたらと響く。本当に音響は良さそうだ、と関係ないところで感心しつつも、膨らんでいた希望に少しずつ亀裂が入るのをノアは感じた。
そんなノアを尻目に、オリヴァーは優雅ともいえる足取りでピアノのところまで行き、立ったまま鍵盤に触れた。
ポーン・・・・・・と、憎らしいほど澄んだ音。
「まぁ気楽にいこうよ」
彼もまた憎らしいほど軽やかに微笑むと、椅子に座って、今度は曲を弾き始めた。長い指が鍵盤の上を踊る。指ならし程度なのだろうが、プロピアニストの演奏といっても通用する。
――何が気楽にいこう、よ。これじゃ詐欺じゃないの。
演奏が巧いというだけではない、別の魅力を含んだ彼の演奏は、そんな台詞も飲み込んでしまうほどにノアを魅了する。唄で人を惑わす水の精セイレーンに魅入られた者のように・・・・・・。






しばらくピアノを続けた後、オリヴァーはふと手を止めた。
「ねえ。さっきのさ、ノアの歌。あれ何ていうタイトル?」
「・・・・・・ジュピター、よ」
「へえ」
自分から聞いたくせに素っ気無い返事。
彼はまた、いくつか鍵盤をならしてから大きく頷いた。
「いいねそれ、もらった。この店もジュピターにしよう」
「え? 名前、変えちゃうの?」
「いや。考えてみりゃまだ店の名前がなかったんだ。いいよね、ジュピターって。なんかこう神秘的でさ〜」
「・・・・・・」
ノアは呆れて、今度こそ言葉が出なかった。
――本当に気が抜ける男。
音楽の才能がなければ、若しくはノアが音楽に興味がなければ、決して関わりを持つことのないであろう種の男。でももう、口出しする気も失せていた。
抜群の才能と不均衡さを持った彼と、ノアの感性を満たす店の雰囲気とピアノ。これになら騙されてもいいじゃない。そんな気になっていたから。



――そうよ。誕生日の悪夢なんてもう慣れっこだし、怖がる年齢でもない。それに、問題ないなら最高じゃない。



問題ない、なんてことはないだろう。
名前もない、従業員もいない、客も来ない・・・・・・こんな店で問題なく働いていけるとは思えない。後々この決断が大きな災いとなってふりかかる可能性は、悲しいが大きい。
ただ――そう悪くは転がらないと言い切れる、妙な予感だけ。
それだけだ。
「・・・・・・充分よね?」
呟きはピアノにかき消される。
大いなる未知が充満する店内に、唯一光を呼び起こすようなオリヴァーの音色が、響き続けていた。

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